ゴッホとは何をした人?炎の画家の人生・名言・代表作をわかりやすく解説

アートを学ぶ

2025年11月25日

「耳を切った画家」として知られるフィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホは19世紀後半に活動したオランダ出身の画家で、ポスト印象派を代表する芸術家です。生前はほとんど評価されず、精神的な苦悩を抱えながらも、わずか4年の間に2,000点以上の作品を残しました。本記事ではゴッホがどんな人物だったのか、どんな絵を描きどのように評価されてきたのかを初心者にもわかりやすく解説します。

ゴッホとは何をした人か

ゴッホ

芸術にすべてを捧げた孤高の画家

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853–1890)は、オランダ出身の画家であり、現在ではポスト印象派の代表的存在として美術史に名を刻んでいます。彼が生前に売れた絵はわずか一枚とも言われ、評価されることなく短い生涯を終えましたが、死後その作品は世界中で高く評価され、現代に至るまで多くの人々を魅了し続けています。

ゴッホの生涯:簡単な年表

1853年:オランダ・ズンデルトに生まれる。父は牧師。

1873年頃:画商としてロンドンやパリで働くが退職。

1879年:ベルギーで伝道師として活動するも、過度な献身が問題視され失職。

1880年:画家になることを決意。

1886年:パリに移住し、印象派の画家たちと交流。色彩が明るくなる。

1888年:南仏アルルへ移住。ゴーギャンとの共同生活を試みるが破綻。左耳を切る事件が起こる。

1889年:サン=レミの精神病院に自ら入院。多くの代表作を制作。

1890年:パリで創作を続けるが、7月に拳銃自殺とされる死を遂げる。享年37歳。

ゴッホの代表作とその魅力

初期:暗い色調と農民の生活

ゴッホが画家として本格的に活動を始めたのは27歳頃。初期の作品には、オランダ時代に描かれた農民や労働者の姿が多く見られます。代表作《ジャガイモを食べる人々》(1885年)はその典型で、暗褐色の色調と粗い筆致が特徴です。彼はこの作品で、貧しい人々の生活の厳しさと尊厳を描こうとしました。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「ジャガイモを食べる人々」 (1885)

フィンセント・ファン・ゴッホ 「ジャガイモを食べる人々」 (1885)

パリ時代:印象派との出会いと色彩の変化

1886年にパリへ移住したゴッホは、印象派や新印象派の画家たちと出会い、大きな影響を受けました。モネやルノワール、スーラらの作品に触れたことで、彼の色彩感覚は一気に開花し、画面は明るく軽やかになっていきました。

この時期の代表作には点描や補色の対比を取り入れた実験的な作品も多く見られます。ゴッホはこの時期に、自らのスタイルを模索しながら、色彩と構図の可能性を広げていきました。

アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ

フィンセント・ファン・ゴッホ 「アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ」(1887) 引用:Wikipedia

アルル時代:創作の黄金期と《ひまわり》

1888年、ゴッホは南仏アルルに移住します。この時期に描かれた《ひまわり》は彼の代表作として世界的に知られています。鮮やかな黄色の花々は、友情と希望の象徴であり、ゴーギャンとの共同生活を夢見て描かれたものでした。  

他にも、《夜のカフェ》《ファン・ゴッホの寝室》《黄色い家》《アルルの跳ね橋》など、アルル時代の作品は色彩と構図において非常に革新的で、ゴッホの個性が最も強く表れた時期といえます。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「黄色い家」 (1888)

フィンセント・ファン・ゴッホ 「黄色い家」 (1888)

サン=レミ時代:精神の揺らぎと幻想的な風景

耳切り事件の後、ゴッホはサン=レミの精神病院に自ら入院しました。この時期の作品には、内面の不安や幻想が色濃く反映されています。代表作《星月夜》は病室の窓から見た夜空をもとに描かれたもので、渦巻く星々と波打つ空気が彼の精神状態を象徴するかのように表現されています。

また、《糸杉》《アイリス》など自然をモチーフにした作品も多く、色彩と筆致によって風景に命を吹き込むような表現が特徴です。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「星月夜」 (1889)

フィンセント・ファン・ゴッホ 「星月夜」 (1889)

晩年:オーヴェル=シュル=オワーズでの静かな情熱

1890年、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、医師ガシェのもとで療養しながら創作を続けました。わずか2か月の滞在で70点以上の作品を描いたとされています。

代表作《オーヴェルの教会》《医師ガシェの肖像》などがありますが、特に《カラスのいる麦畑》は荒れた空と不穏な構図が印象的で、ゴッホの最期を象徴する作品として語られることが多い一枚です。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「カラスのいる麦畑」 (1890)

フィンセント・ファン・ゴッホ 「カラスのいる麦畑」 (1890)

ゴッホのエピソード

■弟テオとの深い絆

ゴッホの人生において、弟テオ・ファン・ゴッホの存在は欠かすことができません。ゴッホが画家を志したとき最初に支援の手を差し伸べたのが弟テオでした。テオは毎月生活費と画材費を送り続け、兄が創作に専念できる環境を整えました。二人の間には約600通以上の手紙が残されており、そこには芸術への情熱、人生の悩み、兄弟の絆が赤裸々に綴られています。

■耳切り事件とアルルでの破綻

ゴッホは南フランス・アルルで画家ゴーギャンとの共同生活を送っていましたが、芸術観や性格の違いから関係が悪化し、激しい口論の末にゴーギャンが家を出てしまいました。その夜ゴッホは精神的に混乱し、自らの左耳の一部を切り落とすという衝撃的な行動に及びました。切り落とした耳は紙に包まれ、近くの娼館にいた女性ラシェルに届けられたとされています。

この行動の理由については諸説あり、ラシェルに特別な感情を抱いていた、あるいはゴーギャンとの関係に絡んだ象徴的な行為だったとも言われています。翌朝、警察がゴッホを発見し病院に搬送されました。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「耳に包帯をした自画像」 (1889)

フィンセント・ファン・ゴッホ 「耳に包帯をした自画像」 (1889)

日本美術への憧れ

ゴッホは浮世絵などの日本美術に強い影響を受けていました。パリ時代には日本の版画を収集し、模写も行っていました。彼は日本の芸術家を「自然と調和して生きる理想的な存在」として尊敬しており、南仏アルルでの生活を「南の日本」と呼んでいたほどです。色彩や構図にもその影響が見られます。

ゴッホの死因とその真相

1890年7月27日、フィンセント・ファン・ゴッホはフランスのオーヴェル=シュル=オワーズで腹部に銃創を負い、2日後に亡くなりました。彼自身が「自分で撃った」と語ったことから、公式には自殺とされています。

しかし、この自殺説は銃そのものが発見されていないことから、近年では他殺説も浮上しています。アメリカの伝記作家スティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の不良少年による事故死の可能性を指摘しています。

死後に広がった評価と遺産

なぜゴッホの絵は売れなかったのか

ゴッホが生前に絵を売ることができなかったのは、彼の作品が当時の美術界の価値観と大きく乖離していたためです。当時ヨーロッパでは写実的で整った構図が好まれ、ゴッホのように感情をむき出しにした筆致や、強烈な色彩を用いた絵は「粗雑」「異質」と見なされていました。

さらにゴッホ自身が社交的な活動を苦手としていたことも大きな要因です。弟テオが画商として支援していたものの、ゴッホは画商やコレクターとの関係を築くことができませんでした。それに加え、ゴッホの精神的な不安定さや孤独な生活は販売活動を困難にしていました。

ゴッホの死後、すべてを引き継いだ女性

ゴッホの死後、その芸術的遺産を守り、広めた立役者はゴッホの弟テオ・ファン・ゴッホの妻、ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルです。

ゴッホが亡くなり、その半年後に弟テオも病死しました。残されたヨハンナは、幼い息子とともに、ゴッホの絵画と書簡の膨大な遺産を引き継ぎました。当時、ゴッホはほとんど無名で、作品の価値も認められていませんでした。

彼女は画商や美術館に働きかけ、ゴッホの作品を展覧会に出品する機会を増やしていきます。特にオランダやドイツ、フランスでの展示活動を通じて、徐々にゴッホの名声が高まりました。ヨハンナの息子ヴィンセント・ウィレムは、後にアムステルダムに「ゴッホ美術館」を設立しました。これは母ヨハンナの活動を受け継いだものであり、現在では世界最大のゴッホ作品コレクションを誇る美術館となっています。

なぜ今もゴッホに惹かれるのか

ゴッホは生前ほとんど評価されることなく孤独な人生を送りましたが、死後にその作品は世界中で注目されるようになりました。弟テオとの絆や耳切り事件、日本美術への関心など、彼の人間的な背景を知ることで、作品の見え方も変わってきます。

現在もゴッホの作品が多くの人に支持されているのは、技術や色彩だけでなく、そこに込められた生き方や感情が、見る人それぞれの経験と重なるからかもしれません。彼の絵は、今もなお多様な視点から語られ、考えられ続けています。

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