ジャック=ルイ・ダヴィッドが描いた『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』はナポレオン・ボナパルトの英雄的な姿を象徴する名画です。1800年の第2次イタリア遠征でナポレオンがアルプスを越えて進軍した歴史的瞬間を描いたこの作品は、単なる肖像画ではなく政治的プロパガンダとしての役割も果たしました。本記事ではこの名画の背景や制作過程、複数のバージョンが存在する理由について詳しく解説します。
ジャック=ルイ・ダヴィッドとは
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748-1825)はフランスの新古典主義を代表する画家であり、フランス革命やナポレオン時代に活躍しました。ナポレオンが失脚するとベルギーのブリュッセルへ亡命しました。亡命後も絵画制作を続けましたが、晩年は比較的静かに過ごしました。彼は1825年にブリュッセルで亡くなり、現在も同地に墓があります。

「自画像」(1794年)引用:Wikipedia
■ジャック=ルイ・ダヴィッドの特徴
新古典主義の代表的画家
ダヴィッドは古代ギリシャ・ローマの美術や理念を重視する新古典主義のスタイルを確立しました。彼の作品は厳格な構図とドラマティックな演出を特徴とし、歴史画を通じて理想的な英雄像を表現しました。
政治との強い関わり
ダヴィッドは1792年にフランス国民議会の議員となり、その後国民公会の議長を務め、革命の式典演出にも関与しました。ナポレオン帝政期には帝国芸術の統括者として宮廷の美術政策を指導しました。
ナポレオンの公式画家
ジャック=ルイ・ダヴィッドは1804年にナポレオンの首席画家に任命されました。これはナポレオン帝政期において宮廷の公式画家として最も重要な役割を担う地位でした。首席画家としてダヴィッドはナポレオンの権威を視覚的に強調する作品を多数制作しました。
『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』にまつわるエピソード
『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』はナポレオンが1800年5月にアルプスのグラン・サン=ベルナール峠を越え、オーストリア軍を奇襲した場面を描いたものです。ダヴィッドはこの場面を英雄的な騎馬姿として理想化しました。

ジャック=ルイ・ダヴィッド 「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」 (1801)
その1:製作の背景
この肖像画はスペイン王カルロス4世がナポレオンへの外交的な敬意を示すためでした。カルロス4世はフランスと同盟関係にあり、ナポレオンの軍事的成功を称える目的で肖像画を贈ろうと考えたのです。しかしナポレオン自身がこの肖像画に強く関与し自身の理想的な姿を描くよう指示したため、結果的にプロパガンダ的な作品となりました。
その2:実際の遠征ではラバに乗っていた
『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』に描かれている馬の名前はナポレオンの愛馬であるマレンゴです。しかし実際の遠征ではラバ(ロバとウマの交雑種)に乗っていたことが知られています。アルプス越えは過酷な環境だったため馬よりも安定した足場を持つラバが適していたのです。
その3:5つのバージョンが存在する
最初の依頼はスペイン王カルロス4世によるもので、ナポレオンへの外交的な贈り物として注文されました。ナポレオンはこの肖像画を気に入り、さらに3枚の追加制作をダヴィッドに依頼しました。ダヴィッド自身も1枚を保管用として制作し合計5枚となりました。これらの肖像画はフランスのヴェルサイユ宮殿やオーストリアのベルヴェデーレ宮殿などに所蔵されています。
その4:岩に刻まれた名前の意味
絵の中の岩には「BONAPARTE(ボナパルト)」「HANNIBAL(ハンニバル)」「KAROLVS MAGNVS IMP(カール大帝)」と刻まれています。これはナポレオンが偉大な軍人ハンニバルやカール大帝と並び称される存在であることを示すための演出です。
その5:ナポレオンは肖像画のモデルになるのを拒否した
ダヴィッドは通常、肖像画を描く際にモデルを座らせてスケッチを行います。しかしナポレオンは肖像画のためにじっと座ることを拒否したそうです。そのためナポレオンの衣装や帽子を借りて弟子に着せてポーズを取らせることで肖像画を制作しました。
ダヴィッドが描いた英雄の肖像
ジャック=ルイ・ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』はナポレオンの自己神話化と政治的プロパガンダの象徴として知られています。実際の遠征とは異なり英雄的なイメージを強調する演出が施され、歴史的軍人と並び称される存在として描かれました。作品の背景やバージョンの違いを知ることでその意図や時代の影響をより深く理解できます。この肖像画を通してダヴィッドの新古典主義の世界をさらに探求したい方は、ぜひほかの彼の代表作にも目を向けてみてください。