
美術ヒストリー
原始美術
美術の始まりがどこかはとても難しく、少なくとも高度な文明が発達するずっと前、紀元前1万年以上前の絵や彫刻は呪術の道具として使っていました。
つまり彼らにとって絵は「美しい」ものではなく「威力」を発揮するものだったのです。
獲物の絵を描き、それを槍や石斧で打ち続けることで、本物の動物を屈服させることが出来ると考えたはずです。
魔術的な目的で岩に描いており、そうすることで獲物を手にいれる力が得られると信じていました。
そして原始美術は決して技術的なレベルが低いわけではなく、現代と同じような「概念」さえあれば、巨匠となった人物も存在するはずです。
人間の根源的な部分を司る精神性とは何かという問いを、常に突きつけられるような力強さに魂が揺さぶられるのではないでしょうか。
メソポタミア美術
メソポタミア美術の特に初期作品が残っていないのは宗教的な理由からだと言われています。
それはエジプトで見られたような、人間の魂を永遠に存続させるために肖像にする信仰がなかったからです。
メソポタミアの王は代々、戦争で勝利すると記念碑を作らせるのが習わしであり、職人がその話をレリーフとしました。
特徴的な左右シンメトリーな架空の動物が何を意味しているのか、まだ正確には分かっていません。
しかし、ひとつひとつ場面が神話のように、なにか意味があったことは間違いないでしょう。
ありありと躍動している場面が多く、それは当時の人々にとって大きなニュースとして語り継がれるメディアとしての役割も担っていたはずです。
事実、戦いの場面ではアッシリア人の負傷者は一切、描かれていません。
絵が単なる絵以上の威力を発揮することを認識していた何よりの証拠でしょう。
プロパガンダ的な役割をメソポタミアの美術から強く感じることができます。
エジプト美術
1990年、水戸市制100周年を記念してオープンした複合文化施設。
塔が印象的な 幾何学性の連続と正確な自然描写がエジプト美術の根幹にあります。
特に重要視されたのが完全さであることはレリーフを見ると明らかです。
自然や様々な事象を不変の形で残すことこそ画家の役割だったのです。
対象となる絵が最も見えやすい角度で明確に描いています。
例えば紀元前1400年ごろに描いたとされる「ネバムンの庭」という壁画を見ると、真ん中に描かれた池は真上からの視点、池の中にいる生物は真横の視点、庭周りの木々は池を中心にして横からの視点で描かれています。
エジプト美術にこうした様式があることで、作品に調和と安定したリズムをもたらしているのです。
また約3000年近く様式はほとんど変化せず、新しい表現の概念が持ち込まれることはありませんでした。それは当時のエジプト王国が未来永劫続くものと思われていたからなのかもしれません。
ギリシャ美術
ギリシャ美術を語る上で欠かせない場所が都市国家「アテネ」です。
そこにいた芸術家はエジプトの彫刻を真似しながら自ら新たな創作をしようと試みており、これが美術史上、最も革新的な出来事のひとつとなったのです。
新たなビジョンを手にした彫刻家たちは、次々と人体表現の実験的思考を模索していきます。
それに続いたのが画家です。
当時のギリシャは彫刻家よりも画家の方がよっぽど有名であったものの、残念ながら作品はほとんど残っていません。
しかし当時の壺に描かれた絵画から様々なことがわかるのです。もうエジプトのように、見えているものを全て描かなければならないというルールに縛られておらず、「短縮法」という技法によって新しい美術の世界が開けていくと同時に、それまでの美術の歴史に終止符が打たれたのもギリシャ美術によるものです。
この時代の傑作である「ラオコーン像」は、発見された当時のルネサンスの芸術家に多大な影響をもたらしています。
ローマ美術
ローマ時代に入ると彫刻家に求められる課題もまた変わっていきます。
それはローマ人が戦いに勝利し、帝国を築き上げてきた歴史を語り継ぐことで国の偉大さを国内外に示そうとしたからです。
こうして細部まで正確に物語を伝える必要に迫られ、それに伴い美術の姿も変化していきます。
ギリシャ美術に見られたような装飾性はなくなり、よりシンプルな図像は伝播しやすいメディアとしての役割も担ったのです。
そしてこの時代に入るとキリスト教美術が台頭してきます。
例えば3世紀に見られる「燃える炉の中の3人のユダヤ人」では絵は美しいだけでなく、神の力や信仰を思い起こさせるものとして描かれています。
ローマ時代に入り、1度は正確な模倣をする方向へ戻りかけた美術はまたしても観念的な表現へと向かいました。
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